本年7月11日(月)、ときわ会の2022年度全体行事である歴史講演会『将門伝説』を柏市中央公民館で開催しました。参加者は61人。ときわ会会員が34人、会員外が27人でした。内、女性が23人で平将門が女性に意外と人気があると感じました。
ときわ会単独での実施で、多数の参加者のもと無事実施できたことは、ときわ会関係者の皆様のご協力・ご支援の結果と感謝申し上げます。 コロナ禍での開催でしたので、開催中止もあり得る前提での計画でした。担当する郷土史友の会とライフアップサロンの幹事は不安を抱えながら企画・準備を行ないました。幸いにも、利用施設による人数制限もなく、当日を迎えることが出来、関係者はホッとした次第です。
関係者の不安の一方で、申込者は締切が近づくにつれ増えだし、70人の定員に届きそうな勢いで、事前キャンセルの5人を含むと、申込者は69人になりました。関係者は「よし、やるぞ!」と意気も上がって当日を迎えました。
当日は、暑さも厳しい状況でありましたが、10時の受付前には数人がご来場され、期待の大きさが窺えました。会場は3人掛けではありますが、コロナ禍での開催でしたので、2人掛けでお願いしました。講師は、元柏市教育委員会の高野博夫さんで、東葛地域に残る『将門伝説』について1時間30分で講演をお願いしました。司会はライフアップサロンの山本連絡幹事が担当し、ときわ会を代表して逸見代表世話人が挨拶されました。
講演内容の概略を紹介します。講師は、自作原稿をプロジェクターで投影し、熱の入った講演をされました。講師の説明は、分かりやすく、語りかけるような口調ですので、受講者はついついその時代のその頃を想像しながら聞き入っていました。
平将門は、平安時代中期の武将で、一族の争い(その頃は一般的)から朝廷に対し反乱することになる。常陸下野など坂東八ヵ国(下総国を含む)を領有し、「新皇」と称したが、京から派遣された平貞盛・藤原秀郷らに敗れて戦死した。将門は「英雄」「逆賊・大悪人」「最強の祟り神」と三つの顔を持つと言われ、時代によって評価が変わる不思議な人物である。大手町のビル街に将門塚(将門首塚)が建っており、毎日生け花が手向けられ、線香の煙が漂っている。江戸総鎮守の神田明神の三の宮の祭神には平将門が祀られている。弱者・虐げられた人々の守護神として、日本中に『将門伝説』が広がっていった。江戸時代には錦絵にも画かれ、その姿は見得を切るポーズで、将門が睨めば雁が落ちると言われた。江戸っ子文士幸田露伴は、歴史評伝「平将門」を執筆した。『将門記』に「王城を下総国亭南に建設」とあるが、その地は柏市の大井郷に比定されており、今も「相馬の都平将門王城通り」と案内されている。坂東地域ではこの頃は、名馬の産地で騎馬軍団のルーツと言われた。江戸時代には小金牧として成立していった。
手賀沼周辺は、将門の伯父平良文の子孫が開発を進めた地域であり、良文の子孫は下総・上総・武蔵など南関東に領地を拡大し、千葉氏・上総氏・秩父氏など多くの領主が誕生した。「相馬御厨」(天皇家や伊勢神社などに寄進された領地)は、平治の乱で京側に奪われ、奪い返すため千葉常胤(良文の子孫)は源頼朝の挙兵に参加し、東国の安定を進言し、自らは東北から九州に所領を持つ有力御家人に成長した。相馬御厨を取り戻した常胤は、次男師常に相馬郡を預けた。これが相馬氏の誕生である。「相馬の野馬追い」は、将門が小金原で野生馬を追って軍事訓練を行なっていたものを、奥州相馬氏が持ち込んだと言われる。
/
柏市に残る将門伝説では、岩井にある将門神社の付近の人は成田山詣をしないという。これは将門が反乱を起こした折に、京から大僧正を成田山に派遣して護摩を焚いて乱が鎮まるように祈願し、祈願最後の日に将門が敗北したことによる。また、将門の娘滝姫(如蔵尼)は将門の死後、菩提を弔い、病で命を落とすが、地蔵菩薩の加護により蘇ったという伝説がある。将門神社横にある龍光院には、地蔵尊が祀られている。
それ以外にも、大井の「車の前五輪塔」や「車御前の鏡の井戸」、布瀬の「高野御殿と将門大明神」、藤ヶ谷の「持法院と将門の墓」「持法院の不動明王」、布施の「布施弁天の絵馬」などの紹介があった。
今回の講演会を通じて、世間では「悪人」「逆賊」と言われる平将門も、その時代背景を考えれば、「英雄」「時代の先駆者」とも評価されるようだ。将門の後には平清盛や源頼朝が続き、武家社会が誕生したのである。この東葛地域でそういう人物が活動していたのを思うと、誇りにさえ思えた講演会でした。平将門の冥福を祈りたい。
※高野講師からは、後半が時間タイトとなり、説明を飛ばしたところは受講者に伝えてほしいとのことでしたので、若干説明を追記させていただきました。
郷土史友の会(連絡幹事)鈴木 睦夫